とちの木の実

俳誌に連載中のエッセーと書評


 しかし、現在の蛇にはその因子はない。いったい、なにが蛇に、手足は必要ないと決意させたのでしょう。遺伝因子を消してしまうほど決定的に。

ガラパゴス諸島の陸イグアナが食べるために、泳ぎをおぼえたことを、テレビでみました。尻尾を使ってしなやかに水中を動き回っていました。そのようなことが蛇にも起きたのでしょうか。
 とまれ、蛇は泳ぎが上手い。泳ぐ蛇の姿は涼し気です。ある夏、桂川でボートを漕いでいたら、小さなが黒蛇が泳ぎ寄ってきました。オールを出すと、くるっと巻き付きます。岸へ運んでやろうと、一本のオールだけで苦戦していたら,察したかのように、静かに水へ戻ってゆきました。

 俳人は蛇が好きなのか,名句がおおい。飯島晴子の句だけ引いてみます。

 幼年の息近々とこれは黒蛇  飯島晴子(蕨手)

 小沙漠蛇は賢きみどりいろ (朱田)

緑色を賢き色と見抜く眼力が尋常ならざる鋭さです。

 何かを得ると、何かを失うと言います。それなら失って得るものもあるでしょう。古代の人々は、蛇が手足に換えて得たものは、なにかと想像をめぐらしました。それは神秘的な智慧か魔力であろうと洋の東西を問わず考えたらしく、蛇のイメージはファラオの冠を飾り、メソポタミアの大地母神の豊饒のシンボルとなり、インドの神々の乳海攪拌の綱ともなりました。巳年は運気が上がるというのも、そんな心嚢の揺曳でしょうか。日本にも三輪山伝説など、蛇の不思議の物語は各地に伝えられています。
飛鳥や山之辺の道を歩き回っていたころ、白い蛇の棲むという大神神社の大杉の前にたちました。洞の中に、白いものが見えたようでドキッとしましたが、やはり気のせいでした。由緒正しい蛇神が俗人の目に、そうそう見つけられるわけがありません。賢い蛇だからこそ、こういう句も味わい深い。

 白緑の蛇身にて尚惑ふなり  (寒晴)