とちの木の実

俳誌に連載中のエッセーと書評

恋の猫 俳誌「とちの木」連載エッセー

今週のお題「ねこ」

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猫の日なので

 今、家に猫がいない。物心がついてからこの方、猫を抱いて寝ていたから、このところの猫無し生活は、なんとも、奇妙に静かだ。。
 猫がしていたように、窓によって日向ぼっこしていると、ベランダを見覚えのあるトラ猫が通る。こちらの視線を感じたのか、これ見よがしに毛づくろいを始めた。猫というのは見られるのが好きな生き物である。家の猫が見ていた時は「外猫生活は自由だぜ」とばかりゴロゴロ転がって見せていたが、私の目の前だと、スタンダードな毛づくろいに抑えている。野良猫だったが、隣のお爺ちゃんになついて、餌をもらい、タローちゃんという名前をもらった。

 T・S・エリオットに「猫に名前を付ける」という詩がある。ミュージカル「キャッツ」のもとになったという詩集「ポッサムお爺さんの実践的猫本」の冒頭の一篇だ。

猫に名前を付けるのはむずかしい。
休日のお遊びっていうわけにゃ行かにゃー

とはじまって有名な「猫には三つの名前が必要にゃんだ」になり、「まず家族が毎日使う名前、ピーター、オーガスタス…」と猫の名前を延々と書き続ける。猫好きも、猫の名前を書いたり聞いたりしているだけで嬉しいとなると、病膏肓に至る、というものだろう。
 ボードレールも猫好きだったに違いない。「悪の華」だけでも「猫」という題名の詩が三つもあるし、猫が出てくる詩はもっとある。、恋人の描写も「切れ長の緑に光る瞳、咬みついて…、クッションが好きで…」と、そのまま猫みたいだ。

 好きな作家や画家に猫好きが多いのは、「類は友を呼ぶ」的な何かがあるのだろうか。それとも、もともとクリエーターに猫好きが多いということか。
ともあれ、いずれ劣らぬ愛猫作家の中でも有名なのは六本指の猫を飼っていたというヘミングウェイだろう。キーウエストの彼の家は多指猫の子孫たちが今も守っていて、猫好きの聖地となっている。

 私はヘミングウェイの良い読者ではない。タフでカッコいい長編は、あまり記憶にない。それより図書館で読んで、手元にすらない「何を見ても何かを思い出す」のような誰も評価しない短編が心に残っている。猫好きはさびしがりやなのかな。 

 日本の作家も猫好きは多い。谷崎潤一郎は愛猫を剥製にして永久保存したそうだが、そこまで行くとちょっと怖い。現代の作家では町田康か。

 猫で思い出すといえば勿論夏目漱石.お髭も猫っぽくて素敵だが、吾輩氏の気の毒な最期を思うと、本当に猫好きだったのかどうか、考えてしまう。エリオットなら「名前も無しとは,飼っているとは言えない」と断言するに違いない。しかし、明治の初めのそのころは、動物愛護どころか基本的人権でさえろくに擁護されていない時代だったのだから、多少は考慮してさしあげましょう。

 動物愛護の王国イギリスでも漱石の留学当時は虐待防止法は制定されていたものの、何度も改訂されている経緯を見れば現状はどんなことが行われていたか想像したくないけれどわかる。特に猫は、中世には魔女の使い魔と、あらぬ疑いをかけられて大量虐殺さえあったという。猫擁護過激派の中には、そういう猫の排斥のせいでネズミが増え、ヨーロパではペストが蔓延したのだと主張する向きもあるとかないとか。

 そしていまや空前の猫ブームである。猫は家の中できちんと飼われるようになった。オスもメスもみな手術を受ける。野良猫上がりのタローちゃんは今では少数派の恋する猫男子なのだ。雪深い北陸の寒風の中、毎夜、ある時は甘く、ある時は悲痛に、恋の雄たけびを上げてさ迷い歩く。だが、その訴えにこたえてくれる猫のお嬢さんはもういない。あわれ、タローちゃん。人間ならとっくにあきらめているころだが、本能はそれを許してくれないのだ。「猫の恋」という季語もいつか「亀鳴く」や「ぬくめ鳥」のような想像的季語と認識される日がくるのだろうか。それが猫の幸せな時代なのだろうか。今夜もタローちゃんの表現力豊かな嘆き節を聞きながら、春の近いことを祈ろう。

 恋知らぬ猫老梅にのぼりけり  おるか

恋を知らないのも幸せそうだな。