とちの木の実

俳誌に連載中のエッセーと書評

器で遊ぶ 九谷焼美術館会報「ふかむらさき」より

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煎茶の器で遊んでみれば

 祖母は煎茶が好きだったという。記憶の中では、いつも眉をひそめた、怖い印象しかないのだが、若かったころは、御道具も中国のものや、出身地の萩焼やら集めていたそうだ。それらを戦災でほぼ失って、残ったものも”食べてしまった”、つまり戦中戦後の困難な時代に、食料に換えてしまったのだ、とか。
 祖母がゆったりお茶を淹れているところを、私は一度も見たことがなかった。愛用の器を失って、よほど残念だったのだろう。これは、という器に出会えるのは嬉しいものだが、その分失った時は落胆も大きい。

たしかに、花が咲いたと言っては縁側に運び、冬の夜は手の中を温めてくれる器は、古い友人のようなものだ。
そして、長い間使われるうちに、器は持主の佇まいを映して成長する。命のないものに、成長などと、おかしく聞こえるかもしれないが、実際そうとしか言いようがないのである。特に高価なものでなくとも、使い込んで、絹の袱紗で優しくなで、良い景色ですねと話しかけ、果ては名前を付けたりして楽しむうちに、何年かすると不思議なほどそれらしい風格が滲んでくる。壊れるものではあるけれど、大事に使えば、器は人の生涯よりも長い時間を生きることができる。
 だから、私の作る器達も、百年ほど使い込んいただければきっと銘品に育つと信じているし、そういう希望があるからこそ作り続けてこられたのかもしれない。
 毎年、庭にハクサンイチゲが咲くと、一輪活けて、雲鶴茶碗でお茶を淹れる。吉祥紋の鶴を,帰る鳥に見立てたつもり。枝垂れ桜の初花を見つけたときは、染付桜川の茶碗で一服する。御飯茶碗に作ったがやや大きめなので小服茶碗に使えないこともないのである。

年年歳歳花相似たり
歳歳年年人同じからず(劉希夷)

花のころは、つい口ずさむ詩の一節だ。
帰るべもなく時は過ぎ人は変わってゆくが、器は、いつも黙ってそばにいてくれる。

 気に入った器は、使いまわしてみたくなるものだ。煎茶茶碗は昔から、ぐいのみを転用したものも多い。茶巾入れや盆巾づつのあしらいは、センスの見せ所だ。
 ため息の出るほど機知に富んだ道具の見立て、とりあわせの妙に、目を奪われたことがある。金沢の茶箱作家多田恵子さんの作品の展示会でのことだ。
 茶箱という小さな世界で、ベトナム漆器が、東欧の小箱が、思いがけない出会いの絶景を形作っている。伝統的な御道具の世界観からすれば異端的かもしれないが、形式にとらわれない自由自在さが煎茶の風通しの良さにふさわしくも思えた。
 売茶翁も鶴翁もしたたかな反骨精神と遊び心を持っていた。偉大な先人たちのおかげで、目まぐるしい現代でも、一煎のお茶の香りにホッとすることができるし、世界中の蚤の市から発見した古道具を取り合わせて遊ぶこともできる。ありがたいことである。

ひととせの茶も摘みにけり父と母  蕪村

 蕪村は売茶翁より四十年ほど後に生れたが、長命だった翁の晩年の境涯は知っていたろう。蕪村の出自は、はっきりしないから、この句を本当の父母の事と見る必要はないだろう。家で飲むお茶を自分で摘む、貧しい暮らしながらも、父と母がいてみちたりている、そんな家族への郷愁のようなものが成り立たせている一句でもあろう。使われている道具は きっと素朴ながら大切に使い込まれて、なつかしい思い出の凝ったセピア色の光を湛えていたにちがいない。

 器を育てるのはお茶の愉しみの余禄かもしれない。一つこつをお教えしよう。まず、その器に、名前を付けてやることだ。

 

写真の器は 花の王飯碗 なでしこマグ

九谷の紫色は二藍とは違って茶色がかって見えます。私はユトリロの紫に似てると思ってるんですよ。