とちの木の実

俳誌に連載中のエッセーと書評

大きな栗の木の下で

「大きな栗の木の下で/あなたと私/仲良く遊びましょ…」幼稚園に栗の木があったので、この童謡を歌いながら見上げたものだった。.大きな木に見守られて遊ぶあなたとわたしは、ことさら、近しい感じがしたものだ。青い毬の中にツヤツヤの栗の実がぴったりくっついて並んでいるのもいかにも仲良さそうだし。

 栗ご飯は秋の味覚の中でも、懐かしいものの一つだ.皮を剥くのは、めんどうだけれど。

 白山のふもとの町では栗の皮をむくための小さな栗剥き包丁が今でも作られている。山里では大切な食糧に、違いない。

 そういえば,元歌のイギリス民謡では、「チェスナットの木の下で」と歌われるが、同じブナ科の良く似た木なのに、実は食べられないらしい。柿の木が日本原産なのは有名だが、栗もまた、芝栗、丹波栗など様々な品種があって日本の秋の豊かさを、味わわせてくれる。

 

  里古りて柿木持たぬ家もなし 芭蕉

 

家々の庭先に、柿がたわわに実っている眺めは、確かにいかにも日本的な風景だと思う。栗の木は、大きくなるからか、あまり庭に植えるものでもないようだけれど、人里近くにある。

 おかげで、秋も深まると「熊が出て危険だから柿や栗を片付けなさい」とお達しが来るのだが、そもそもなぜ熊が里山に出没するかと言えば、山に食料がないからで、杉の木の植林を励行してきた政治が悪いのではないか。荒れた杉山をドングリや椎の木の自然林に戻す運動をだれかしてくれないものだろうか。

ともあれ、栗と言えば思い出す歌に

 

月よみの光を待ちて帰りませ山路は栗の毬の多きに  良寛

 

という一首がある。

 経験した人はわかると思うが、栗のいがのトゲトゲはびっくりするほど痛い。昔の人は草鞋か何か履いていたのだろうから、うっかり踏んづけたら、それは痛かったろうと思う。栗のイガが多いからと心配するのはなんて優しいのだろうとも思うが、本当は良寛様も山里の秋の夜長が寂しくて、客人に、もう少し居てほしかったのではないかな、という気がする。超然と行いすましているのはなくて、何となくかわいげのあるところが、愛される要素なのだろう。良寛に、知人にあれやこれやとおねだりをしている手紙があるが、事細かにいろいろ欲しがっているのに、まったくいやらしくなくて、むしろかわいい感じがした。これが、人徳というものなのでしょうね。 

 

 栗という字が西の木である、というので、その昔、西方阿弥陀浄土に憧れる者に好まれたという話を聞いたことがある。私は、そのような信者ではないけれど、気がつけば、身の回りに栗材の木工品が多くなっている。軽いし、軟らかくもあるから、弁慶の泣き所を欅の座卓にぶつけたときは涙がにじむが、栗の木の机にぶつけたときは多少我慢が出来る。

そして、栗の木の木工品と言えば、我谷盆だろう。

加賀から福井へと向かう険しい山道の奥に九谷があるが、そこまで、風谷,菅谷など、いくつもの谷がある。その中の我谷という集落で昔から作り続けられてきたのが我谷盆である。民芸運動などで一時は非常にとりあげられたらしい。鑿で削り出された素朴な盆だが、鎬目にモダンなデザイン性も感じさせる。使い続けるうちに栗の木の流水のような木目が漆に泛び出て美しい。

 一時は途絶えかけたときもあったというが、最近は我谷ルネッサンスと称して活発に活動しているそうだ。先日も近くで展示会があって、女性作家の作品を買った。紅葉も深まってきたし、一善の栗ご飯を新しい我谷盆に乗せて、秋のお昼を楽しもうと思う。

 

写真の左上の小ぶりな我谷盆がそのときかったものです。

   俳誌「とちの木」2023年十月号より転載


歌仙青葉冷えの巻  満尾

十月もはや半ば。後の月の時節です。

いよいよ名残の裏にはいりました。花の定座まで、まずは無季の句を挟むことになります。

 

おのづから父の手跡をなぞりつつ  山椒魚

 

御父君の俳句集だそうです。墨で書かれた読みにくい字を指にたどりつつ、さまざまの思い出が去来する。味わい深い句ですね。

 

濡れし革靴扉をひらく  西原

 

前句からの流れで、御父君の革靴かと思いましたが、ご自身の靴で、新しい扉をひらく、という非常に前向きな展開となりました。

 

床の間の一円相に礼をして  中江

 

新しい扉は茶室へと開かれたんですね。たしかに茶室までの露地はたっぷりと打ち水がしてあって靴も湿り気を帯びることでしょう。躙り口から入って、床の間のお軸の、どなたか禅宗の老師様の円相に一礼する。し、しぶい…。

次は花の前、春の句をお願いしました。

 

ふはりふはりと春の白雲   中江

 

柔らかで軽くあかるい素敵な付けですね。春らしいし、雲を出したところに行雲流水の雲水さんとの、そこはかとない連携がかんじられます。まさに匂い付け。さてとうとう花の定座です。

 

満開の花までの道願ひ道   佐藤

 

満開の花、きっと願もかなうことでしょう。さて揚げ句は

 

上皇に寄り添ふ后風光る  正藤

 

そういえば上皇后さまが御怪我とかで、ニュースになってましたね。時事の題材ながら、いたわり合う姿になごみますね。

というところで、青葉冷えの巻もついに満尾となりました。

来月は高野ムツオ氏にコスモスの発句を頂戴して新しい歌仙が始まります。楽しみです。

 

 

 

 

 

 

苔青く  (俳誌とちの木より)

苔青く

 

 梅雨がようやく終わったかと思うと、目のくらむ暑さである。そのせいだろうか、中庭のヒノキ苔が枯れてしまった。中庭と言っても住宅と工房の間の細長い日当たりの悪いスペースで、花を育てるには不向きなので、自然発生的に苔が場をしめているだけなのだが。

 

 考え事のある時は、そこで、雑草を抜いたり、あっという間にはびこるハイゴケやゼニゴケをむしっては、くよくよと過ごす。そしてどことなく品のあるヒノキゴケが淘汰されてしまわないように、陰ながら応援してきたというのに。苔の緑には癒されるが、興味を持つと、途端に好き嫌いが激しくなってしまうのはどうしてなのだろう。

 

 嫌いな方のゼニゴケはというと山際で湿気の多い土地柄が御気に召すらしく未知の爬虫類のように巨大に成長して、海松色の舌を四方にに這わせ、ちゃくちゃくと領土を拡張している。なんとなく腹立たしい。そこでつい、熱中症の危険も忘れてむしりまくっていると、ふと芳香に気づいた。シンと心の鎮まるような、奥深いフゼア系の香り。ゼニゴケだった。嫌われ者の、アメーバのように不気味な見かけのゼニゴケに、これほどの香りをお与えになるとは。造物主の慈愛というような言葉が脳裏に浮かぶ。

 もっとも苔にしてみれば、きれいだの見にくいだのは人間の勝手な言い分すぎない。それぞれ与えられた場所で、文字通り一所懸命に適者生存しているだけなのだろう。

 

 苔というのは不思議な生き物である。雪ニモ夏ノ暑サニモ負ケナイ丈夫な体を持っているうえに力もある。数年前、お隣の土蔵が倒壊して我が家の庭に野太い梁が倒れかかるという空き家問題の最終局面にみまわれたのだが、いつの間にか、重機でもなければ動かせそうになかったその梁が、苔に覆われててボロボロになっていた。苔のパワーおそるべし。 苔ばかりではなく菌類や地衣類も働いたのだろうけれど。

 

 菌類も面白い生き物だ。南方熊楠が夢中になった粘菌などは、脳などないにもかかわらず、とても賢いのだとか。

 いつだったか粘菌の迷路抜け実験の映像を見たことがあるが意外に早く抜け出るので感心した。始めのうちは、素直に迷路の入り口から入って出口を目指しているが、途中から中に入らず迷路の外側を壁沿いに大回りしようとする一群が現れて笑ってしまった。たしかに賢い。知性とは何だろうと、考えてしまう。

  地衣類となると菌類と藻類が共生しているハイブリッド生物らしいから凄い。ひっそりと一隅をまもっているだけのようにみえて、ひょっとして一回り進んでいるのかもしれないと思う。造物主は生命の文法を生成するために、こういう小さなもの達をまずは哺語のように零していったのだろうか。

 

 山道を車で加賀の名湯粟津温泉からしばらくうねうね走ったところに「苔の里」という苔の名所がある。さほど大きな庭ではないが、湿気が多く苔の生息に向いた土地なのだそうだ。そのあたりは、全国農村景観百選に選ばれていて、以前は確かに、赤瓦の立派な民家が櫛比し、落ち着いたたたずまいの村落だった。先日、久方ぶりに言ってみると、人口減少の波が山深くの里にも津波のように猛威を振るったらしく、「苔の里」も人影もなく苔ばかりが変わらぬ緑を林立する杉の大木の下に広げていた。それでも管理している人がいるのだろう。雑草はもちろん杉の実生の小苗も、きっちりぬいてあった。珍しい苔があったら買いたいと思っていたが、無人販売所には、普通の杉苔やヒノキゴケしかなくて残念だった。駐車場の周りに大きな、良い表情の石がたくさん置いてあったから、庭を拡張する計画があるのかもしれない。そうだといいのだけれど。

北陸は全体に湿気が多いから、苔にとっては住みやすい土地かも知れない。加賀市の三名湯の一つ山中温泉の渓谷に沿った遊歩道でも、苔の観察をしている人を見かける。苔の好きな人も増えているようだ。私も苔盆栽や苔玉を作ってみるが、素材が簡単に手に入るものだから、どうも扱いが雑になりがちで、反省している。もっと苔を喜ばせてやりたいものだと思う。



青蛍我が墓掃苔不要です。  おるか

 

 

九月のMuse’e句会

ようやく秋めいてきました。古九谷美術館のカフェ「茶房古九谷」での句会。

花茶をいただきながらまずは、投句です。写真のように一句づつ紙に書いて作者がわからないようにシャッフルすることになります。

その後、手分けして清記。清記したものを回覧しながら好きな句を選びます。五句投句して五句選です。お茶の中の枸杞の実がおいしい。

選句の終わったところで、水出しの加賀棒茶とお菓子。銘は「山苞やまづと」です。とっても美味しかったです。良い栗使ってますね!

さて選句の結果は

三点句

石仏の顔の落ち葉も拝みけり  中井

 

石仏のお顔に貼りついた落ち葉も、もろともにおがむ。 俳味があります。

ひと夏を生きて働きつくした落ち葉だって尊いとおもいますし。和やかな風景です。

 

赤のまま一つ離れて色の濃く  おるか

 

家の前の風景そのままの句ですが。群生しているところからちょっと離れた一本の色が濃い気がしたので。

 

屠らるる羊の瞳秋の月   東出

 

モンゴルに個人旅行なさった旅吟だそうです。お客様が来たからと群れの中からあっさり一頭選んで川のそばにつないだ。明日は屠られるその羊と目が合ったそうです。

モンゴル紀行の句はどれも臨場感があっていい句でした。作者にとって印象の強いご旅行だったのでしょう。

 

黄昏に客のため羊屠る男(ひと)  東出

 

大草原の黄昏に羊を屠る。見事な達人技で、一瞬で死なせ、あっという間に解体調理だそうで、すさまじいけれど美しいまでの光景だったとか。

モンゴルの草原には竜胆や吾亦紅が咲いていたそうです。花野ですね。星もきっといっぱいなのでしょうね。行ってみたいけど…、やっぱり解体直後は無理かも。

 

午後の秋蝶あとがきのようなもの  roca

 

「あとがきのようなもの」って、何ですか、と聞かれても困るけど、感覚的に好き。

午後の悲しみ、というものがあります。今日の日もすでに傾きかけているという認識。しかも秋、そして秋の蝶は、これはもう儚い命の先が見えて哀れです。

一冊の物語を読み終えて後書きに入るのは、思い出を振り返るにも似ています。午後の秋の蝶の姿は逝く夏の惜別にはたはたと羽打つ。

 

黄落の時きて時の去りしあと   山椒魚

 

黄落という季語好き。銀杏並木や欅など高木に多い気がします。そして、落ちる時を決めていたかのように一斉にはらはらと散りますね。そして黄色は黄泉の色。

柿本人麻呂のうたに、亡くなった妻への一首があります

秋山の黄葉を茂み迷ひぬる妹を求めぬ行方しれずも

黄一色の山道に迷ってしまった愛しい人。美しい。黄落というと思い浮かべる歌です。

 

火恋しと火鉢に袖を焦がするよ  松田

 

火恋しは、冬の季語とするお考えの方もいらっしゃいますね。そうなると火鉢は季重なりになってしまうかもしれませんが、火鉢というものも懐かしい。

 

九谷焼美術館が休館中のカフェに集まるのが秘密めいて楽しいこの句会も一年になりました。みなさんとてもうまくなりましたね。感心しました。

 

 

俳句365日  川崎雅子

 

スマホのタイムラインで、その日に思い浮かんだ自句を自解して一年ということで上梓なさったとあとがきにありました。一日一句って案外できないものですよね。感心します。

 

ちなみに今日八月26日の句は

 

明日香なる鬼の雪隠雲の秋

 

解説によりますと、会社の後輩と「谷村新司と飛鳥を歩こう」というイヴェントに参加なさったときの思い出だそうです。

私も昔、明日香を歩いて、鬼の雪隠に入ってみましたが、周りがあまりにも開けすぎていて妙な感じでした。確かに空は良く見えるでしょうね。

明後日28日は

 

鰯雲死者を運びてゆくごとし

 

<「死者」などという生な言葉は好きではありませんが、この句の場合は「死者」しか考えられませんでした>

と自解にあります。鰯雲の薄薄と白く横並びになった雲の一つ一つに死者が乗っているのなら、そして秋空に横たわっているのなら、なんだか気持ちよさそうだなーと思ってしまいました。

やや、死に触れた句の多い印象でしたが、お母様を亡くされてそれほど長い時間がたったわけではないからでしょうか。

自句自解は、わたしなどは、変に照れてしまって難しく感じられますが、川崎さんのけれんの無いサラリとした文体で語られると、なるほど、と思うことも多く、もっと自句自解が上手くなりたいものだと思いました。

Mus'ee句会七月

お菓子の銘は「青葉闇」薄紫の闇なんですね!

九谷焼美術館の展示替え休館日を狙って行って来た句会も一年になろうとしています。早いものです、今回から投句が5句になりました。

句数が多くなると時間もかかりますのでサクサク進めます。今回はばらけた感じ最高得点が三点でした。

 

銀色のなめくじ銀の道残す  くの一

これほど美しいなめくじはちょっとないでしょう。銀色にけぶる世界は、梅雨の季節ならでは、という感じがします。

 

しんがりの軽鳧の子すいと葦の闇  ともこ

 

お母さん軽鳧鴨の後を必死に小走りについてゆく雛の姿は可愛いものです。はらはらしながら見ていると、行列の最後の一羽も蘆原の茂みの闇にすいこまれるように姿を消した。

 ただかわいいだけでなく闇を見ているところに深みを感じました。野生動物が生き残るのはかなり難しい。子鴨達の中の何羽が成鳥になれるでしょう。おそらく、しんがりになっている子は少し弱くて闇に消えてしまう確率が高いかもしれませんね。

 

 

更けし灯にちらと尾の影守宮の子   ともこ

 

黒いビーズのような瞳を煌めかせて窓の明かりに寄ってくる羽虫を狩る守宮。窓ガラスに張り付いたお腹がよく見えます。

音もなく更けた夜の窓にふと近づくとあっという間にどこかへ逃げて行った小さな影。ある夜の出来事、というかんじですね。

つぎは二点句

 

苔の花フランス刺繍の目の歪み  くの一

 

苔の花というと、ひめやかでひっそりとして地味で、云々という発想の句が多い中でフランス刺繍と取り合わせたところが新鮮で美しさが際立ちます。

花といっても苔の花は、シダ類同様、胞子でふえるので、そのための、雌雄のある配偶体というもの、のことなんですよね、たしか。ちょっと不気味なすがただったりします。

でも本当に美しいものは、どこか不気味なところがあるとわたしは、思います。刺繍の白の繊細さに苔の緑がひときわ深く印象づけられます。

 

秋暑しあうら【漢字がでません)仏に見せて寝る  おるか

 

暑そう。

 

他にも気になる句はいろいろとありました。

 

炎昼に怒りの影をおとしけり   中井

 

炎昼の如く熱い怒り。すばらしい。作者は世の中に義憤を抑えられないようなことが多すぎるの怒っている。お気持ちは良く分かります。

 

存在とは伴侶のごとし半夏生  山椒魚

 

作者はハイデガーの「存在と無」の何度目かの通読にいどんでいらっしゃるところなんだそうです。うう、ドイツ観念論か…、たじたじですね。やっぱり私はベンヤミンみたいな方が好きだな。

 

新秋のバス待つ人のシルエット  小林

 

きっと細い影なんでしょう。夏の日差しに地面に焼き付くような濃い影ではなく儚げなんでしょうね。

 

香水は苦手といへり向き合へば  東出

 

おもしろいですね。面と向かって言われた、とは。

言葉の流れが巧みで、斬新な印象があります。作者と向き合った人物の関係が惹かれ合いながらもちょっと反撥しているみたいな微妙な機微が感じられてなかなか。

 

実は今回は久しぶりで、多少気に入った句があったのに誰も選んでくださらなかったので、悔し紛れに載せておきます。

 

蜩に目覚めし骨のさみしうて  おるか

背の闇や橋の真中の手花火の  おるか

夏落ち葉笑悪面に堆し     おるか

Mus'ee句会五月

麗しの五月、公園の緑のまぶしいカフェ、茶房古九谷で句会です。

この句会は美術館が休館の間、やや人少なになるカフェを利用させていただいているので、毎月行うわけではないものですから、季節がいろいろです。今回も晩春の句、夏の句とまじってました。無季もありました。私は無季の句を否定するものではありません。ただ、成功するのが難しく感じられるだけです。無季で良い句もたくさんありますものね。

 

さて、今回の最高得点句は5点

 

空丸く切る夏燕殉教地   くの一

 

燕の鋭い飛翔は、確かに曲線ですね。しかし丸いとはいえ、殉教というパセティックな響きと取り合わされて、何かただならぬ気配がただよいます。今は静かな夏の景色に、かつて流された血を幻視する。感性の鋭さを感じます。

ちなみに今回の最高得点賞品はかわいいミニバラのブーケでした。

 

さて次は

 

ぎゅっとしてくれる人無き春の宵  下口

 

  ふと口をついて出てきたような口語の軽やかさとさびしさ。こういう句もいいですね。ほかにも

 幸せか不幸せかは決めぬ春  下口

等々、下口さんの世界を感じさせてくれる句が印象的でした。

 

幾千体空へ仏の夏木立   松田

 

まさに経典にある数千地湧の仏、という言葉を体現した一句。地から湧いてくる幾千本の木の生命が、そのまま仏であるという認識が凄い。

一本一本の木の姿が見える冬木立でも良かったのでは?とその場では申し上げましたが、やはり生命力を感じるのは夏木立のほうかな、と思いなおしました。

 

思い出を紡ぐ一夜の香の席  小林

 

無季の句ですが、艶な趣の一句ですね。この季節なら、三景香かな。

 嗅覚は思い出を刺激するものです。ひめやかな香を聞く中に様々の思い出が次々と紡ぎ出される。やはりたくさんの思い出のある年代の方ならではの思いの深さがあってこその句とおもいました。

 

眼差しは雲居の向う朴の花  井上

 

朴の花は上空の雲の上に咲いてますね。青空はもちろん薄曇りも似合う白さです。雲居遥かに眼差しをやる、というのは、物故された故人の思い出へ向けた眼差しかな、と思いましたが、そういうわけではないそうです。やはり実際に顔を合わせての句会はその場で作者に句意をお尋ねできていいですね。

 

逢ひたくてゆっくり急ぐ柿若葉  中井

 

「ゆっくりいそぐ」は案外、よく見かける表現なんですね。

若ければロメオとジュリエットのように一気に駆け抜けるのでしょうけど、ゆっくり急ぐのが、作者の今の心境なのでしょう。柔らかな柿若葉の緑とよく似合います。

 

仏滅の後日談ある薄暑かな  西原

 

後日談が聞きたくなりますね。しかしそこをさらっと「薄暑かな」と受け流してるのが上手い。ひどく大人な感じの手馴れた風情の句です。作者はとてもお若いにもかかわらず、この巧者ぶり。末恐ろしい…。

 

リラ咲いて天使階段おりてくる  東出

 

 原句は「天使の階段おりてくる」でした。「天使の階段」というと日矢のことですよね。雲の切れ間から斜めにハイライトのように射してくる光とリラの花の取り合わせも、きれいですが、本当に天使がおりてくるのもリラの花に似合うんじゃないか、と思いました。

個性豊かな句がいろいろあって楽しかった。