白い花の季節。俳誌「とちの木」に掲載した白についての随想を転載さしていただきました。一月に書いたものなので、花には触れてませんけど。
白山の白、辛夷の白
悪夢のような元日が過ぎてしばらくして、加賀二之宮に、遅い初詣にでかけた。川沿いの横道から小高い愛宕神社に廻る。鳥居の下で振り返ると、街並みの向う、薄雪の山並みの上に白山が人の嘆きを知ってか知らずか、白々と日に映えていた。
加賀の平野部のどこからでも眺められる白山の、三つの峰、大汝峰剣ヶ峰御前峰が雪に覆われてスプーンですくったアイスクリームのよう。女神のいます山らしい、たおやかな稜線が、ひとしお滑らかに見える。
雪の白さは、すべての色を寄せ付けない究極の白かもしれない。雪で、まず思いだす俳人といったら、橋間石か。氏にとって雪は故郷金沢の、母郷の象徴のようである。
雪ふれり生まれぬ先の雪ふれり 間石
たらちねの雪なるぞ酒を熱くせよ 間石
どちらの句も懐かしく恋しくてたまらない気持ちがあふれんばかりという感じ。
しかし、たまにこういう句も
たましいの暗がり峠雪ならん 間石
句の奥から、歌舞伎の雪音(撥を綿で包んで静かにタンタンタンタンと鳴らす音)が響いてくるようだ。魂の暗がりにふる雪はあえかな白だろうか、それとも人を遭難させる白い魔なのだろうか。
白の俳人といえば高窓秋だろう。
根の国へ白より外のわが生(よ)なし 窓秋
根の国は暗いと思いがちだが,死に装束は白いもの。また、白という文字は首が晒されて白い骨になった状態をあらわしているそうなので、白は本来、死者たちのいる彼岸にちかしい色なのかもしれない。
かの骨は大地に起ちて真白にぞ 窓秋
思わずにはいられない人の骨なのだろうけれど、ちょっとばかり哀しすぎますね。
窓秋の白といえばこの句を出さずには終われない。
頭の中で白い夏野となっている 窓秋
頭の中の白は非在の色。この世の夏の景ではない。 夏の白山は、御花畑が広がって、それはきれいだという。憧れるけれど体力的に無理とあきらめている。行ってみたい気持ちはあるが、白山はこれ以上、いわゆる”開発”などしないで無垢の白さのままに存在していてほしい、と思う。
続く