とちの木の実

俳誌に連載中のエッセーと書評

古九谷動物園 九谷焼美術館報「古九谷つれづれ」より

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虎の子

小皿の中の動物たち 虎の子


公園の木漏れ日を抜けて、九谷焼美術館に入る。エントランスの傍らに、マリオ・ベリーニの椅子があるので、ちょっと座ってみる。中庭に面した窓辺にはウエグナーのYチェアが並んで光を浴びている。そして資料室にはスーパー・レジェーラが一脚ひっそりと、歩き回って疲れた鑑賞者を待っている。 私はこの華奢な椅子に座って、館内の静かな気配に耳を傾けるのがのが好きだ。
 作品から作品へ、行きつ戻りつするのは、けっこう大変だから、合い間に名品椅子で休憩できるのはうれしい。そんな心配りも、このこじんまりした美術館の居心地の良さの要因の一つだろう。

古九谷の大皿の迫力の陰に隠れて、端皿とよばれる小さな作品群は、取り上げられられることが少ない気がする。だが、見過ごし難い独特の魅力にあふれている。まず驚かされるのは、その器体の多様さだ。瓢形、木の葉形、扇の重なった形、色紙の端を折り込んだ様子が立体的に表現された折色紙形。この皿を見たイスラエル人のアーティストが「現代美術のようだ」と感心していたのを思い出す。ともかく多種多様で、なかには「変り形」と書いてあるのもある。なんと表現したら良いか、きっと悩んだのだろうな、と思う。

 絵柄もまた、それぞれにかわいい。きっちり描きこんであるものも、ざんぐりしたものもあって、それが形と上手く取り合わされていて飽きない。
 私は動物が好きなので、図柄の中に動物がいるとつい目をひかれる。中に、二匹の虎の子が断崖で遊んでいる図の向付がある。子猫がじゃれあうときに良くするように、もったいぶった様子で頭をかしげ、尻尾をくねらして顔を見合わせている。その顔がちょっと人間ぽくて、なんだかバルチュスの画いた猫に似ている。こなれた筆、洗練された描きぶり、作行きもまたぴしっときまっている。何形というのかわからないが、左右対称の端正な器である。高台の削りは、内側に刳り込むように、怖いほど細く切り立っている。両の手の中に納まるほどの大きさなのに、立ち上がりに勢いがあり、口縁に来てゆったり波打つように一旦たゆたって、細い口錆びの縁へとつながる。絵が魅力的なものだから、写真は真上から撮られることが多い。だから、この作品の立体感は写真ではなかなかわからない。ぜひ実物を見て欲しいところだ。
 虎の子が断崖にいるとなると、どうしても太平記にある「獅子の子落とし」的な含みがあるかと思いがちだが、五彩に彩られた二匹の子虎は、そんなことなど全く気にしない様子で元気に遊んでいる。
 中国の文様には、吉祥を表すものが、ことのほか多く、一見普通の花鳥画のようでも、牡丹は富貴を、蝶は、ちょっと意外だが長寿をあらわすなど、念入りに寓意がこめられている。古九谷の絵付けも、中国画の寓意の影響はあるだろうが、小さな器の中でそれほどこだわっていないのが、洒落ている。なにごともきっちりしすぎるより、ちょっと崩したくらいが粋なものだ。それは、手抜きとは違う。高度な遊び心とでもいうものだろう。限られた空間に色鮮やかな花鳥が遊ぶ。中にはシュール・レアリスティックといいたいような奇抜な図柄もあって、作り手の自由な発想に魅せられる。まさに壷中の天を覗く気分とでも言おうか。小さな器の中の別世界を眺めて、いにしえの人と対話するのは、楽しいけれどさすがに疲れる。そんな時、良い椅子は必需品なのである。また木漏れ日を抜けてスーパー・レジェーラに座りに行こう。

 

九谷焼美術館は現在休館中です。

写真は古九谷ではなく私が作ったものです。当然ながら