とちの木の実

俳誌に連載中のエッセーと書評

緑の香り

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里山の緑

 一雨ごとに緑の諧調が変化して、山全体の盛り上がってくるような新緑の五月。林道を歩くと何の花とも知れず香る。
 もうすこしすると朴の花が咲き出して天上の香りを降らしてくれる。香りを吸いながら、世界の果てまでも歩いていきたくなるような甘くすがすがしい香りだ。五月の香りベストスリーを選ぶならまず朴の香りは外せない。

 同じモクレン科の辛夷やオガタマも肺が清められるような香りがする。 白山の山懐に広大な石川県森林公園がある。その、あまり人の行かない奥まったところに辛夷の巨樹があって、毎年、花の時期に会い行くのだが、満開のときは、空に聳え立つ純白の噴水のよう。まさに世界樹イグドラシルという感じ。その幹に抱きついてボーっとするのは至福の時間である。

 クロモジも、この季節にめだたない花をつける。クロモジはシネオールなど芳香成分で知られる。楠科には他にも良い香りの木が多い。肉桂もそうだ。幹も葉も当然ではあるがシナモンの香り。
 クロモジは日本の特産だそうで、クロモジ楊枝で和菓子を切るときには、良くぞ日本に生まれけり、と思ってしまう。凛として深みのある香りだ。茶室のような小さな空間に、しめやかにこの木の香の立つのは心憎い。黒文字も捨てがたい。

 さて、朴の木、クロモジときた、残りの一つはなんだろう。桜だって、あのなつかしい葉の香りは捨てがたいし、早春の沈丁花の香りは、美しいと表現したい香りだ。春の沈丁花と並んで、秋の木犀の、あたりの空気を夕映え色に染めるような香りも良い。くちなしの甘い香りも、蝋梅の玲瑯も、と想像するだけで酔うような気がするが、わたしは日本三大芳香樹の最後の一枠、は柚子を選びたい。柚子は枝も葉もおくゆかしい香りがする。青柚子のすがすがしさも熟した柚子の香りも皆すばらしいが、その上に仄かに甘いトップ・ノートを乗せた、柚子の花の香りは格別の趣がある。
古今集、及び伊勢物語

 

 皐月まつ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする

 

古今集には、よみひとしらずとして載っているこの歌の花橘も、同じ柑橘系だから、柚子の花とよく似た匂いのはずだ。「昔の人」はきっと若々しく、柑橘系のさわやかな香りの似合う人だったのだろう。香りの記憶は最も深いという。花橘の香りの中に恋人は永遠に昔と変わらない姿で立っているのだ。仏は香食身といって香りを食べ物とし、香りで説教するという。悟りの世界に導いてくれる香りってどんな香だろう。究極の名香にちがいない。目を瞑って五月の風の香りを聞く。死ぬなら五月がいい、と思う。