とちの木の実

俳誌に連載中のエッセーと書評

金沢句会十月

赤絵の恋しくなるこの頃

お湯呑み御愛用いただけているようで、嬉しい。

今回はやや人数が少なめでしたので、手持ちの秋の句好きなだけ投句していただきました。ほぼどの句も、どなたかが選んで、ばらけた感じ?まずは2点句

 

木槿雲は傍片へゆくなれば  おるか

近くのお宅の庭の木槿がきれいだったので、そのままの句

 

蛇笏忌の窗にはたりと朴落葉  おるか

たまたま蛇笏忌でしたので

 

遠山の神の三角天高し  井上

 

世界は基本的な幾何学的図形によって構成されているというお考えからの句だそうです。えーと、そういう理解でよかったのかな。

 

今ここに我が身一つの秋の暮れ  井上

 

而今に自身の存在を見つめる。秋も暮れようという時節の気配に、人間の存在論的寂しさが漂う。

 

鬼子母神まつりし寺の薄紅葉  小林

 

「薄紅葉」が、まず、きれいです。金沢で、鬼子母神のお寺と言えば、泉鏡花が、幼いころの母様との思い出を書いている、卯辰山の真成寺でしょうか。行ってみたくなりますねー。人形供養やら子供にかかわりのある行事の多いお寺だそうです。そんなお寺の薄紅葉、良いですね!

 

立哨の電信柱後の月  おるか

今年は中秋の月も大きかったけれど、後の月もきれいでした。

 

観念の解き放されし子規忌かな  井上

 

この句は哲学青年だったという子規の

 

観念の耳の底なり秋の声  正岡子規

 

を、踏まえての句。仏教的観念ではなく哲学における観念 Idea だそう。

子規の句を知らないと味わえない句でした。私は知らなくて選べなかったけれど,選をなすった方々、偉い。

 

 

 

一点句はたくさんあるのですが。

 

手のひらのななかまど実のあたたかや  井上

 

ななかまどの実の深紅は、硬質なまでに凝縮した緋色ですが、手のひらに乗せると秋の日を浴びて、ほのかに暖かいのだった。視覚と触覚、印象鮮明で小さなものへのやさしさが伝わってくる。良い句だな、と思いました。

「暖か」は春の季語にもありますが、これは小さな実のぬくもりの懐かしさが眼目ですから、ナナカマドの実と季語が二つになる云々と目をそばだてることもないでしょう。

 

駅頭に人待つ午後の赤とんぼ  小林

 

ツー、ツーと軽やかに飛び交う赤とんぼの中で人を待つ、特に意識に上がってくるほどでもはない淡い淡い哀感があります。駅頭という場所も旅情を誘うものがある。赤とんぼは山奥から移動して、ある日空いっぱいに現れる、移ろいゆくもの達です。旅へのいざないと、哀感。

この非常に淡い情感は俳句でなければ言い留められないものだろうとおもいます。

 

秋茜竜神雲へと逃避行   万貴子

 

秋茜の飛び交う中、すごい勢いで雲へと昇っていく竜神。作者に伺ったら、愛の逃避行なんだそうです。すごい幻視力。

 

一点句まだありますが、ちょっと休憩