とちの木の実

俳誌に連載中のエッセーと書評

青に触れたくて

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染付とか、拙句集とか

今までに見た一番深い青は何だろう。

遠い日に、山の上で見た五月の空?ふいにいなくなってしまった白猫の瞳?三好達治の詩にも詠われた露草の花の色?その終聯に「はるかなるものみな青し」と、あるように、つゆ草の青は遠い色をしている。朝咲いたものが、すぐに萎れ、お昼には色も濁って小さな不機嫌の塊りになってしまうのだけれど。

 青は非在の色。湖の水を掬ってみれば透明なように、青は実体を感じさせない色だ。

 青の民俗学者といわれる谷川健一は「青と白の幻想」のなかで、南島の風葬墓にぼんやりと揺蕩う光を青と呼んだとして、「青の島は死者が歯噛みする暗黒の地獄ではない。そこは「明るい冥府」である」と云う。そしてまた「日本の地名」では各地の「青」とつく地名は塋域であったところが多いとも書いている。
なるほど南島の海と空との溶け合う彼方にあるという常世の国はまさに「明るい冥府」そのもだろう。その渚のなんと郷愁的な青に染まっていることか。

 西欧では「青はキリストの色」と言われる。そして天使の服の色、,聖母のマントの色でもある。ここでも青は憧憬の色であるらしい。

 システィナ礼拝堂のあまりにも有名な最期の審判は、圧倒的なラピスラズリの青に覆われていた。ミケランジェロは高価な絵の具を、これでもかとばかり使ったのだろう。写真で見るよりもずっと濃く重々しい青だった。「審判」の峻厳さを表そうとしたのだろうか。一番重い青を選ぶとしたら、第一位に押したい。

 はるかな思いを誘う天空の色を、掌中にしたいという願いは中国で一つの形をとった。十世紀ごろから始まった「雨過天青」といわれる青磁の器となって。
 なかでも汝窯青磁は柔らかな発色、ゆったりかかった釉薬が何とも魅力的だ。一碗の汝窯青磁があったら他には何もいらないような気がする。
 絵画の青の歴史がラピスラズリとアズライトの歴史と云えるなら、焼き物の青の歴史は十四世紀のコバルト顔料、つまり呉須の登場で大きく変わった。それ以前から釉薬の下に鉄絵などを描く手法はあったが呉須によって鮮明な図柄が描けるようになった。染付の鮮やかな青の世界は魅力的でさまざまな様式が生まれたが、その青は透明な釉薬の下にあるわけで、やはり触れているようで触れられないのが青の魅力なのだろう。

 青磁は松灰など鉄分を含んだ灰釉を還元焼成して作り出す。生地も鉄分を含んでいるものも多い。人間の血の中の鉄分が、動脈の酸素がいっぱいある状態では赤く、酸素を使い切った静脈の中では青く見えるように、灰の中の鉄分から酸素を奪うように焼き上げることで、あの微妙な翡色が輝きでるのだ。 早春の野に出てまだ厚い雲の切れ間に、やや薄翠を帯びた光がさすとき、「雨過天青雲破処」をひたすらに求めた古の皇帝の気持ちがわかる気がする。
 磁器の染付のことを中国では「青花」と呼んだので、、拙句集のなまえにした。

 涼夜かな青花壺中に座すごとし 

この句は猫なら納得してくれるだろうと思う。家のミケも暑い日は染付の大鉢に入って涼をとる、なかなか風流な奴であった。

*青い表紙の句集「夏の庭」はホームページ『うつわ歳時記』でご覧になれます。